スイカ割り
日本では、夏の風物詩の1つである
元々は中国(三国志時代)に、戦の前に砂の中に生きた人を埋め、その頭を叩き割るという儀式があった。ところが赤壁の戦いを前に諸葛亮がこの残虐な儀式を改めようと、人の代わりにスイカを叩き割るようにしたのがスイカ割りの発祥であるという*1
そして、スイカの9割は水分である。夏に熱中症に罹らないためには、水分をこまめに取ることは医学的にも推奨されており、スイカの旬が夏というのは理に適っている。
また、人間の体は100兆個を超える細胞から成り立っており、体重の約65パーセントを占める水分の約3分の2は、この細胞内に存在している。残り3分の1は、細胞と細胞の間に存在する細胞間液と血液にあり、それぞれ生命を維持するために働いているという。スイカは、夏に日本人が死なないための生命維持装置といっても決して間違いではない。
ところで、スイカを割るにはバットを用いるのが常道である。ここで、1度熟考してほしい。バットはアメリカから運び込まれた西洋の代物であり、本当に日本の風物詩を担う道具として相応しいのだろうか
否
生活の些細な事から、異国による植民地化が始まる。もし文明崩壊の危険性があるならば、スイカ割りにバットを使うことは推奨されることではない。ならば、私達はどうすればいいのだろうか
日本古来から親しまれた、一本歯下駄を使うしかなかろう
一本歯下駄を装着
一本歯下駄は持つところから始まる。左手は
添えるだけ
勿論、方向が分からぬようグルグルバットをしてからのスタートである。
残念ながら、スイカではなく人がいる方向に向かってしまう。
「あっちだよ!」
「こっちに来ないで!」
「こいつ、クソきめぇ」
「超おもしろーい!(マジ、このクソイベント早く終わらねーかな)」
あらゆる罵声が飛び交う、二子新地BBQ場
※BBQを共にした人たちは、ほとんど初めましての人達です
私は色んな意味でどこに向かってしまうのだろう、そう自問自答する刹那
ついにスイカを心の目で捉えることに成功する
果たしてスイカは割れるのだろうか
か、硬い
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
これが…スイカの硬度
私は、皆になんと言って詫びれば良いのか
遺憾の意である
もう無理であるのだろうか・・・限界とはこのようなことを指すのだろうか・・・
はっ!!!
そうだ。論語の一節にこんなものがあった
子曰、
「力不足者、中道而廢、今女畫」
訳
お前は自分の力不足だといっているが、そうではないよ。
本来、人間には限界なんてものはない。
それを道の途中でやめてしまうのは、自分の限界を、自分で作ってしまうということなのだよ。
畫は「聿(筆)」と「田」から成る。この字を赤塚忠氏は「田」を区切ることだという。区切ること、見限ることが原義である。自分の限界を決めてしまうことを孔子も嫌ったという。*2
そう、自分の限界を設けてはいけない。
何度でも挑戦して、よいではないか
自分を
信じよう
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
スイカが 砕破した
自分を信じる
それは親にも、内閣総理大臣にも、親友でさえ肩代わりすることはできない
自分を信じる
そのような単純なことがいかに難しく、尊いものなのか
それを身体で感じた、夏の終わり
スイカは凄く甘美であった
おしまい
*2:10のキーワードで味わう論語